不器用の作法

ことばとして発された瞬間、

それはもう自分の考えとは違うものだ。

 

誰しも経験があるでしょうか。

身体のいろんな器官の末端で生成された

無数の叫びが脳に送られ

再生されている。

 

それを印刷ボタンひとつでプリントアウトできる機能が人類に搭載されない限り、

芸術その他あらゆる表現活動はこの世からなくならないので安泰ですね。

 

さりとて

世間というこの一般的な現実社会においては、

何をおいても

わかりやすさが好まれるわけです。

 

感情のアウトプットが乏しい人は

「何考えてんのかわからん人」

として片付けられる。

 

 

 

 

わたしだ。

 

 

 

 

 

 

 

あえて言わせてもらうが、

 

 

 

 

まず

 

自分が

 

考えていること

 

 

 

 

わからない

 

 

のに

 

 

 

 

それを他人に説明できてたまるであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

あー

めんどくせー

 

自分めんどくせー

、、

 

 

 

 

 

それを無理やり外界に引っ張り出し、

ことばにしようとすれば

それは必然の事故。

 

プリンターでいえば紙詰まりじゃん。

 

 

 

 

で、ここは

 

ことばとして昇華されずに散った

いろんな思いの断片たちを拾い集めた標本。

 

いつかの感情の亡霊は

半ば、インプロビゼーションのごとくあふれ出る。

 

その燃料だけで

わたしは書いているっぽい。

 

 

 

言語としての曖昧は排除される。

文字には意味の余白がゆるされる。

 

 

伝えることのむずかしさ。

わかりあえないジレンマ。

 

ただ救われたくて書いているわけでもない。

 

 

 

ありきたりでも

わすれたくないこと。

 

多くはない

大切にすべきこと。

 

 

 

それらを

まちがえそうになった時、

 

わたしにとって、いつかの誰かにとって

道を正してくれるものでありたい。

 

そうそれは完成されることのない標本。

 

 

 

繊細を盾にいつしか傲慢に

不器用を言い訳にあぐらをかき

知らずに人を傷つけていないか。

 

 

 

後悔を知る時は、

きっと手遅れ。

 

どうせ生きるのなら

ひとつでも多くのありがとうを。

 

 

 

やすっぽい啓発本の帯みたいな文句ですが、

今いちばん留めておかなければいけないこと。

 

おわり

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